話のハナシ

小説と映画に対するのアウトプットです。

まじめであるということ

表題からいきなりなんですが、真面目であるということに対してどんなイメージを持っているのでしょうか。

 

頭が固い、自分に与えられたものは(自分なりに)きちんとこなす、約束は守るものなどがまず考えられると思います。

 

時に良いイメージ、時には堅苦しいというイメージを持つ言葉です。

 

ただ、そこには必ず他者からの評価、言い換えるのであれば他者からの見え方が大いに働いているように見えます。

 

まじめにしているようでもそうでない。その逆もしかり。自分が言うこともありますがら大抵は他者から言われた一言が自分がまじめであると思わせるようになっていることもあるように感じることもあります。

 

それが色んな人から言われてくるとどうでしょう。

 

まじめであることは悪いことではありません。

 

ただ、そうでない人に押し付けることはどうなのかと思うことも多いです。

言い方を変えると自分が良かれと思っていることも他者に押し付けると押し付けられた側が苦しくなることはないでしょうか。

 

自分がこうあるべきと思う価値観を押し付ける、自分が他者にこうあって欲しいと望む姿を押し付ける、そうなってしまったら他者は疲れ果ててしまうのではないでしょうか。

押し付けるが行き過ぎた表現だということはわかります。

 

自分の価値観を押し付けることで周りに何か悪影響を与えることもあるのかもしれないということは頭のどこかには置いておきたいものです。

 

価値観を押し付けることよりも自分の価値観と相手の価値観の折衷地点を探しておくことが重要なのではと思います。

 

明日は月曜日。

 

憂鬱な人もいるし、そうではない人もいるということも肝に銘じておきたいです。

 

とにかく自分はこうだという芯は持っておきたいもの。

「わからない」を楽しむということと最近面白かった映画について

映画、文学では個人的には「わからないけど、なんかすごいものを体験した」ということを重視している。

 

こう言い切ってしまうと、かなり訳が分からない偏屈な人物であるという誤解を招くかもしれない。もちろんエンタメ性抜群のものも大好きだし、現実逃避には最適なものでもある。

 

新しいものに出会いたい、体感したいとなってくると「娯楽以外の何か」を求めるようになってくる。

 

新しいものをネット検索したり、ジャケットに惹かれたりしていくと、どんどん深みにはまっていくと実感しながらもその深みが楽しくなってくることもある。

 

そんな中で最も楽しいことは「わからなかった」という瞬間だ。

 

スノッブな、というお叱りを受けることは重々承知の上だけれども少数の手にしか触れられていない隠れた名作もあるとは思っている。そんなものに触れられた時にどんな風な感想を持つかということを大切にしている。

 

知った風な感想や誰かのレビューの受け売りで答えるよりも「何かわからなかったけど、すごかった」くらいの言葉で答えるということも1つなのではないでしょうか。

 

わからないからこそ調べる、新しいものに触れる、触れた後に再挑戦してみると意外と新しい発見や見方ができることがなかなか楽しい。

 

もちろん限られた時間の上なので、全部が全部そうできるとも限らない。幸いなことに映画、文学研究をしている身ではないので差し迫った締切もない。

 

現実の中では明確な答えを求められることが多いからこそ、何かわからないという感覚は大切にしておきたい。

それと共にわからないということをわからないと言える人間関係だけは築いておきたい。

 

ちなみに最後に最近見た映画で面白かったものは「アクロスザスパイダーバース」(2023)とフリッツラングの「メトロポリス」(1926)です。

 

どちらもよくわからないけど、すごいものです。興味があればぜひ。

音楽を聴く、ということについて

ここ1年くらい久しぶりに音楽をよく聴くようになった。

 

まだ10代だった頃には今よりもインターネットも普及していなかったし、サブスクなんてものも全くなくて手探りのことがほとんどだった。

 

ある程度歳を重ねていくと(もちろんそれだけでなくネット社会の拡大もある)調べ方なども身についてきたのか色々と新しいものに目がいくようになる。

 

レコードショップのレビューを見たり、SNSで探したりとネットをフルに活用しているのだけれどそれでもやっぱり生で見ることやリアルの声を聞く、ということももちろんある。

 

映画や小説なんかは意図しないとずっと触れないままに生活することがもちろんできる。

 

音楽、というものはテレビやラジオだけでなく日常のスーパーや商店街でもかかっている。もっと広義に捉えていくのであれば自然の音や車の音なんかも音たりえるのではないかとも思う。

 

そんな中でもやっぱり音楽に求めることは非日常だったり、感動だったりするわけで初めて聴いた時の感動や驚き、衝撃なんかをずっと求めているのかもしれない。聴いているものは10代と随分変わってきたけれども求めているものはあまり変わらない気もする。

 

いわゆる思い出補正なんかもあるから昔よく聴いていた音楽をどうしても聴きたくなることもあるし、それをあえて自分で否定はしないけれども新しいものに出会う喜びや探す楽しみなんかも大切にしていきたい。

 

あれやこれやのしがらみも増えてくる年にはなったけれども、そればかりでは面白くない。

 

新しい音楽に触れる体験、ぜひやってみて

夜のこと2

その頃、僕はバンドをしていた。インディーズでの活動なんてものもおおげさになるくらいの極小活動。

友人たちとライブハウスの空いてる日をレンタルして、当日一緒に演奏するバンドの知り合いだけが見にくるような本当に内輪の集まり。

楽器を持って学校に行き、その後スタジオ練習やライブをするなんて高校生は当時から極少数だったから、今までの関係とは異なる友人関係ができることも必然だった。

 

卒業してもまだ地方や都市部の大学に移動する前の僅かな期間で時間さえあればバンドで集まって練習をしていた。

 

だからお金がなかったのだ。

 

ナンバーガールの解散アルバム買った?

聞いたよ、飛んだわ

ジョーストラマーが死んだね。

何かショックで何にもできない。

 

みたいなことや

 

9.11が起こったのはなぜか、ヴァージンサーサイズの女の子たちが最高に可愛いみたいなことを話していた時期ももう終わりなのだ。

 

自分たちを中心に回っていた世界がもうすぐ終わる。

(続けます)

夜のこと

この時期になるとふと思いだすことがある。

 

それは僕が高校を卒業して間もない頃、大学への入学準備をしながら最後かもしれないモラトリアム期間を過ごしていた。

 

授業で覚えた猶予期間という言葉がぴったり当てはまるくらいに好きなことをして、お金がなくなると日払いのアルバイトで必要な分だけ働くという生活を送っていた。

(続かせます)

 

ディストピア

ディストピア小説として語られるものには枚挙にいとまがない。

 

1984

動物農場

侍女の物語

すばらしい新世界

「時計仕掛けのオレンジ」

などなど。

 

どこかしらSFじみた近未来の世界で起こることや、時間軸が違った世界として語られることも多い。

 

ただ、もし、そんな世界が現実にあるとしたら?

2+2=5になるような世界があるとしたら背筋が寒くなるような気がする。

 

言論の統制、為政者に都合の良い真実しか伝えないニュース、隣人の突然の失踪。

 

そんな世界があるのかもしれない。

 

さて、

 

ベラルーシという国のことについて、知らないことが多すぎる。

隣国のウクライナについては近年の情勢から聞くことも増えてきたが、この文章については政治的な意図は全くないため、そのことについては今回は言及は避けるとして。

 

サーシャ・フィリペンコという作家の本を立て続けに読んだ。

僕は現代ロシア語文学の最重要人物の1人だと思っている。

もう1人、ウラジミール・ソローキンについてはまたいつか。

現在、日本語訳されているのは2冊。

どちらも壮絶な話である。

 

ネタバレをしたいわけではないので、細かい内容については関係するものを見てもらうとして、2冊ともに共通して見られるところが現実としてのディストピア世界だ。

同じロシア文学でいうと、「地下室の手記」や「イワン・デニーソヴィチの一日」の流れを感じる。

文体は難しくなく(ロシア語圏の名前に慣れていたら)、むしろ読みやすい。

 

もちろん、現在の情勢なんて直接見聞きしたわけではないから僕が知っていることはネットや本文の中だけのことである。

ただ、これに多少なりとも真実が入っているとしたらかなり恐怖を感じる。

 

自分が生き抜くためには、どうすれば良いのか考えると、某RPGの作戦ではないが、「命を大事に」を字義通りに行わないといけない。

そこに芸術や余暇は存在しない。

 

芸術としての表現をしようとするならば、まさに命懸けで行うか、都合の良い作品しか作ることができない。

そんな中で色々なものを犠牲にして表現している様には、もはや敬服する。

 

これを読んで自由な表現ができる国に生まれて幸せー!なんて思考は1ミリも持たないし、対比すること自体無意味であると思う。

 

ただ、読むことで今当たり前にあるものが本当なのか、それとも我々も2+2=5であると半ば言わされそうな世界に生きているのかは考えていきたい。

 

もう一度紹介します。

サーシャ・フィリペンコ

この作者の動向をこれからも追っていきたい。

 

今日の2冊(今回は2冊です)

サーシャ・フィリペンコ

(何の因果か、彼は1984年生まれだそうだ)

「赤い十字」

「理不尽ゲーム」

 

注釈の可能性について

今回は小説の中の注釈について、考えていきたいと思います。
 
 
注釈にはいくつかのタイプの表記の仕方があります。

・巻末にまとめて記載している場合

・ページ横に記載している場合

・ページ下に記載している場合

・本文中に()で記載している場合

etc

 

私自身は注釈を見ることが好きです。

 

巻末に記載されている場合はページを行ったりきたりしないといけないことが煩わしく感じる時もありますが、なかなかに面白い記事が載っていることもあります。

また、巻末に記載されているものだと、思いもよらずネタバレになることも…

 

そんな時があるかもしれないので、ページ横に記載しれているものを選ぶこともたびたび。

 

普段絶対目にしない知識や、生きていく上で必ずしも知る必要のない知識を仕入れていくことがたまらない時があります。

 

もしかしたら学校で習っていた知識もあるかもしれない。その時にはスルーしてしまっていたり頭に入ってこなかったりしたものもあります。

逆に学校で習った知識が出てくると、「おっ、知ってる」となることもあります。

 

たぶん、古代ギリシャ神話や中国神話、その時代に使われていた言葉や原文の独特の言い回しなどは知らなくても一生過ごすことができるものなのでしょう。

 

言ってみれば不要なものなのかもしれない。

 

生活していくだけでは知り得ない、知る必要のない余計な知識が読書生活や映画などを深く見るための手助けをしているとなると興味深いものがあります。

 

どこかの注釈で読んだものがまた違うどこかで繋がってくると面白いものです。

 

注釈が生活を豊かにする、そんな可能性に期待して、注釈のある本の読書生活を始めてみてはいかがでしょうか?

 

今日の1冊

ホルヘ・ルイス・ボルヘス

「伝奇集」